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もと力士として大名、旗本に抱えられていたのが、老齢になって暇を出され、これを相撲浪人といった。相撲興行はこれらの浪人が中心で、相撲集団を監督して、喧嘩が起こらぬよう取り締る責任者であった。貞享元年の公許興行は、勧進元の雷権太夫以下十四名が「株仲間」を組織して、毎年願い出てやっとこの年に認可を得たのである。
 この年寄制度の原型といえる十五人の株仲間も七年後の元禄四年になると二十人に増え、その顔ぶれも雷、大獅子、中川の三人だけ残して変り、いまに残る年寄名としては大竹(大嶽)、尾上、浅香山の名が見える。当時は一代年寄で消えていく者が多く、これは年寄創成期ころの通常といえよう。なお先代の跡を襲ぐケースもあれば、現役時に何らかの資格(詳細不明)を得て年寄となり、それが受け継がれる場合もあり、従って人数は増加する一方であった。江戸末には50人に達し、明治半ばには80の多きを数えたが、明治22年東京大角力協会設立時の申合規約で88家の名跡が定められた。大正末に大阪協会と合併した際に17家が加わり、その後休眠させられていた大阪協会の名跡を改称の上復活させたり、また根岸家が昭和26年に廃家となり一市井人と変わり、また昭和34年に木村庄之助と式守伊之助が年寄兼務でなくなるなどあり、現在は 105家(及び特例の一代年寄)で固定された。また、平成10~18年には準年寄制度も存在した。元来大坂の弟子だったものが後に江戸でも弟子入りした場合は、継承時には元来の系統が重んぜられたことから、大坂の名跡を継ぐ場合が多かった。バレエにつれて、バレエ レオタードが現われています。この相撲年寄も、専業とする者だけに興行許可を与えるという幕府の方針が決まったのは、享保年間からである。それからは、年寄株仲間が結束し、年寄名跡がしだいに重んじられてきた。(別冊相撲「国技相撲の歴史」)
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