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制度とくれば「相撲会所」である。ここでも江戸を例に取る。会所は年寄による組織で、力士らが運営に容喙することは許されない。逆に言えば、会所が成立するということは、年寄による相撲興行及び力士の独占支配が成り立っているということである(これは部屋制度などに窺うことができるが、省略する。相撲部屋制度の確立も18世紀末頃と思われる)。力士らをまとめ、興行の権益を独占し、収益を年寄を通じて分配する組織である。上下関係で完全な統制が図られた。勧進元・差添といった興行責任者を順繰りに務めるのは、「歩持(ぶもち)」という主だった年寄で、また、世話人は 2人、当初は雷ともう一人(順繰りに交代)であったが、錣山喜平治の就任(宝暦13年(1763))以降は、両者がそのまま務めた。他方が退いたあとを誰かが継ぐというようになった。その後文政(1818~30)辺りから、筆頭・筆脇と呼ばれて権勢を大いに振るうようになった。何しろ筆頭・筆脇は引退までその座にいられるのだから、やりたい放題。経理は年寄にさえも示さず、収益も上層の年寄で占め、番附編成は両人に三河屋治右衛門(後根岸)と 3人で(船の上で盃を交わしながらと伝わる)やり、つまり会所は独裁に近い組織になり、長くその傾向が匡されなかったのである。好取組で沸く相撲興行の裏は、見たところ極めて強引な手法で統制されていたのである。バレエにつれて、バレエ レオタードが現われています。以降は江戸を中心に記述するが、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を行う体制が確立したこの時代を記述するに当たっては「江戸べったり」だと、片手落ちの相撲史になってしまう。江戸相撲・京都相撲・大坂相撲の各々が独立した相撲集団であるのではなく、各国にある相撲集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという「合併相撲」を打つ形であるから、なおさらである。
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